新潟県の名人級の語り部を選定し収録した越後の昔話CD。語りの達人と言われる古老が地の方言で語る貴重で楽しい新潟県民話語りの醍醐味をご堪能ください。民話ファンや昔話の語り部を目ざす方は是非聞いてみたい昔話CDです。

高橋ハナさんとその昔話

高橋ハナさんとその昔話(解説)

 高橋ハナさんは大正三年(一九一四)二月、越路(こしじ)町大字東谷(ひがしだに)に生まれた。小学校を卒業したのち、群馬県の製糸工場で女工として働いたが、八年後に帰郷し結婚、以来、故郷を一度も離れることなく、八十歳を越えた現在も阿蔵平で平穏な日々を送っている。

 大字東谷は町の南部、渋海川(しぶみがわ)の右岸から隣接する刈羽(かりわ)郡小国(おぐに)町および小千谷(おぢや)市との境をなす越路原(こしじはら)丘陵との間に広がり、荒瀬(あらせ)・山宿(やまじゅく)・阿蔵平の三集落から構成されている。荒瀬の集落は大字の北部にあり、渋海川・JR信越本線・国道四○四号線が東西に平行して走っている。山宿の集落は大字の南西部、越路原丘陵に端を発し、北流ののち渋海川に合流する東谷川(ひがしだにがわ)の中流域に、また、阿蔵平の集落は大字のほぼ中央、同じく丘陵より北流する蔵王川(ざおうがわ)の中流域から東谷川との合流地にかけて、それぞれ位置している。かつては、蔵王川上流に池(いけ)ノ平(ひら)の集落があったが、過疎化が進み、昭和五四年(一九七九)、荒瀬へと集団移転した。

 これらの各集落がいつごろ開発されたかについては詳らかではないが、山宿は戦国期以降江戸時代まで、柏崎(かしわざき)と小千谷とを結ぶ街道の宿場として栄え、当時は三軒の造り酒屋があったと伝えられている。池ノ平は山宿在住の庄屋、五十嵐丑左衛門の分家である五十嵐善兵衛が開いた地とされ、善兵衛から現在の子孫まではおよそ二〇代が経過しているという。また、大矢仁三郎編『塚山村勢要覧』(昭和二十九年、塚山村役場)には、天和年間(一六八一~一六八三)に、既に山宿に六戸、池ノ平に二戸、阿蔵平に五戸の人家があったと記されている。荒瀬については、集落の鎮守、諏訪神社の境内にある昭和八年(一九三三)建立の石碑に、「……天和検地際境内地一五○坪外に社領を有せられ、近郷まれに見る旧社たり。……本社殿は文政十二年の改築にして当時の氏子二十三戸……」との記載がある。

 江戸時代の大字東谷は、前記四集落からなる東谷村として一つの藩政村を形成していた(『塚山村勢要覧』によれば、明治初年(一八六八)には、荒瀬集落が東谷村とは別の独立した一村であったとの記述があるが、詳細は不明である)。しかしながら、明治二十二年(一八八九)施行の市制・町村制に基づき、隣村の西谷(にしだに)村および塚野山(つかのやま)村と合併、新たに塚山(つかやま)村となり、東谷村は同村一大字となった。その後、塚山村は昭和三十年(一九五五)に、来迎寺(らいこうじ)村・岩塚(いわつか)村・石津(いしづ)村の三ヵ村と合併し、越路町が成立、大字東谷はそのまま同町の一大字・一行政区として、現在に至っている。

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 ハナさんは大正三年二月二十日、父竹次郎(明治四年生まれ)と母マツ(明治三年生まれ)の第五子として生まれた。母のマツがハナさんの生家、高橋家の跡取りで、父の竹次郎は池ノ平の五十嵐家より迎えられた婿であった。その当時の高橋家は、父母と阿蔵平の木曽家から嫁いだ祖母のマス、長兄の左平次(明治二十八年生まれ)、姉のキノ(明治三十二年生まれ)、トイ(明治三十七年生まれ)、兄の郡治(明治四十二年生まれ)そしてハナさんからなる八人家族であった。大正七年(一九一八)には妹の勝栄が誕生。この頃、長兄左平次は旧千谷沢(ちやざわ)村(現・越路町大字千谷沢)小坂(こさか)出身の内山カズと結婚し、若い夫婦の間には妹の勝栄といくつも歳が違わない子供がいた。

 生家、高橋家は昔からの地主で、父竹次郎は出稼ぎに出ることもなく、稲作と養蚕で生計を維持していた。このうち、稲作は小作に任せて年貢をとり、家族は専ら養蚕に従事し、春蚕・夏蚕・秋蚕・晩秋蚕と年四回も蚕を飼っていたという。

 農家で養蚕が行われるようなるのは、明治時代の初頭、蚕種や生糸が海外へ輸出されるようになってからである。養蚕は現金がすぐに手にすることができて魅力があったものの、生糸の価格は変動が激しく、大きな危険も伴っていた。そのため、その後、一時的に蚕の飼育が下火となったが、明治二十年(一八八七)前後から次第に生糸の価格が騰貴し、養蚕に従事する農家が再び現れてきた。時あたかも米価の下落が始まり、明治二十三、四年(一八九○、一)頃からは一層、養蚕に重点を置く農家が増加した。旧岩田(いわだ)村(現越路町)大字不動沢(ふどうさわ)に養蚕伝習所が開設されたのは明治二十七年(一八九四)のことであった。年一回、春蚕だけの養蚕から順次回数を増やす農家が多くなり、山々には桑畑が次々と造成された(中静喜一郎編『岩塚村誌』昭和三十年、岩塚村教育委員会)。
 ハナさんとその兄弟姉妹たちが生まれた時代は、まさに農家が「養蚕成金」を夢見た時代であった。

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 妹の勝栄誕生からわずか五年後の大正十二年(一九二三)、ハナさんが小学校五年生のとき、父竹次郎が五十二歳で死亡。高橋家にとって、一家の大黒柱を失った打撃は大きく、また、折からの不景気とも相まって、その生活は次第に苦しくなっていった。
 大正十四年(一九二五)春、ハナさんは塚野山尋常高等小学校東谷分教場を卒業。すぐに親元を離れ、群馬県前橋市の丸六製糸工場に就職。斡旋人の世話するまま、身の回りの物だけを行李に詰め、不安と期待を胸に阿蔵平を後にした。

 工場には六百名ほどの女工たちがいて、遠方からやってきた者たちは寄宿舎に入っていた。寄宿舎では一〇~一五名が一部屋で生活し、同じ出身地の者が同部屋になるように配慮されていた。毎朝、六時に起床し、朝食を済ませてから工場に出勤。体操をしてのち、仕事にかかり、夕方六時には終了となった。その間、午前九時と午後三時にはそれぞれ一五分間の休憩があり、正午からは一時間の昼休みがあった。休日は第一および第三日曜日の月二回。先輩の「姉さん」たちは、休みがくるとそろって活動写真(映画)を見に出かけていたが、幼いハナさんにとっては、それよりも、近くの田んぼや野山で草花を摘むのが楽しみであった。

 実家に帰省できるのは、年末年始の休みの時だけで、その際に一年分の給料が支払われた。給金は当初六〇円であったが、年数を経るとともに増加し、最終的には九○円になった。給金とは別に、一ヵ月間休まずに働くと、見習いのうちは三〇銭、その後は五〇銭の手当てが貰え、そのお金はお菓子や食事代に使っていた。雪の降らない都会で過ごした女工時代は、「姉さん」たちに妹のようにかわいがられたこともあって、毎日が楽しく、実家が恋しくなったことはただの一度もなかったという。

 ハナさんは八年間、製糸工場に勤めたのち、阿蔵平に帰郷。この間に、姉トイと兄郡治はそれぞれ結婚、就職のために家を離れ、一方、家督を継いだ長兄左平次夫婦には、次々に子供が誕生していた。また、ハナさんが実家に戻るのと相前後して、祖母マスが死亡。世代は時の流れと共に、移り変わっていった。

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 昭和十一年(一九三六)、ハナさんは近所に住む高橋重太郎と結婚。両家は同じ本家から分かれた分家同士で、夫重太郎との結婚は、娘を近くにおきたいという母マツの強い意向によるものだったという。

 嫁ぎ先の高橋家は、畑作と養蚕を営む農家で、桑畑が五反もあった。同居していた義父藤太郎は大の酒好きで、健康を心配する義母や夫の意見も聞かず、一斗の酒を買っては飲み続け、毎日の仕事がままならぬほどであったという。義母のツマは、気持ちの優しさとは裏腹に言葉が荒く、ハナさんは姑勤めに大変苦労した。姑が家にいれば働きにでるほかなく、朝早くから夜遅くまで、痩せる思いで働き続けた。冬になると、土木工事の人夫に出ることもしばしばで、とりわけ鉄道のトンネルでの仕事が最も難儀であったという。
 ハナさんは夫重太郎との間に、五男一女をもうけた。結婚後間もなく生まれた長男重臣(しげえい)は残念ながら夭折したものの、昭和十五年(一九四〇)に次男賢一が誕生、続いて、三男実を出産。しかしながら、貧しい山間地での暮らしは医者にもかかれず、再び幼い我が子との別れとなった。その後、終戦の翌年、昭和二十一年(一九四六)には、長女陽子が生まれ、その三年後(一九四九)には四男仁が、同二十八年(一九五三)には、五男勝が誕生した。

 戦中・戦後の苦しい時代をようやく乗り越え、子宝にも恵まれた幸福な日々は長くは続かなかった。昭和三十三年(一九五八)に四人の子供を残して夫重太郎が死亡。翌年二月には義母ツマが、四月には長兄左平次が相次いで亡くなった。この時のハナさんの悲しみは深く、その落胆は大きかった。

 以後、ハナさんは一家の稼ぎ手として寝食を忘れて懸命に働き、四人の子供たちを無事育て上げた。現在、次男賢一氏が家を継ぎ、ハナさんと一緒に阿蔵平で暮らしている。
長女陽子さんは、同町大字浦(うら)の西脇家に嫁ぎ、四男仁氏は埼玉県熊谷市で幸せな家庭を築いている。五男勝氏も同じく埼玉県の浦和市で働いていたが、不幸にも昭和六十二年(一九八七)、交通事故で他界した。ハナさんにとっては、息子に先立たれた寂しさ以上に、若い嫁と幼い二人の孫が不憫でならなかったという。

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 ハナさんが、小さい時から話好きで、殊の外昔話が大好きであったのは、まじめな性格で記憶力が確かであるのみならず、その周囲に祖母マスさん、母マツさんがいたことである。マスさんは、身体の弱いマツさんが難儀な仕事が出来ないと、「フッカ、心配しなさんな」と励ますくらいで、親子の仲がよく、二人とも昔話伝承者として十分な資質と能力を持ち合わせていた。

 ハナさんの昔話は、三世代、四世代の大家族のなかで、マスさんはマツさんへ、マツさんはハナさんへと、伝承されたものである。こうした親から子へ、そして孫への伝承は、必ずしもその環境と感化によるものとはいい切れないように思うのである。

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 昔話伝承の条件には、語り手と聞き手の存在が必要である。マスさんやマツさん、ハナさんのまわりには、昔話を楽しみにしていた多くの子供、孫、甥、姪がいて、さらに、その友達がいた。そして昔話が語られるに十分な場所と時間があった。
 一三五話のハナさんの昔話を語り手別にまとめてみると、全体の約七割が祖母と母から聞いた話であり、そのなかのおよそ九割は母マツさんから聞いている。
 ハナさんが祖母マスさんから昔話を聞いた頃は、マスさんは五十歳前後で、仕事の終わった夕飯後や、雨や雪の日の仕事のない時などに、炉端でボヨを燃やしながら簡単な短い話を語ってくれた。長生きをしたマスさんは、年をとってあまり家の仕事ができなくなると、「さあ、昔話を語ろう」といいながら子供を促して自分の寝間に入り、行火(おかこたつ)のまわりにドット繰り込む子供や孫たちに昔話を語っていた。その頃は兄左平次には子供がいて、ハナさんは背中に甥や姪を背負って、マスさんの話をねだるようにして聞いていた(図3参照)。

 母マツさんからも多くの昔話を聞いた。夏の野良仕事の忙しい時は夕食後のひととき、冬は一日中といってもいいくらい、昼となく夜となく暇さえあれば炉端を囲んで、子供たちはマツさんの昔話に聞き入った。ハナさんは、なかでも冬の夜、夜なべ仕事にオボケ(苧績み桶)を持って集まったマツさんの友達仲間が、細い苧麻の糸を口にくわえてつなぎ、膝頭の上で糸をより、オボケに糸を貯えてゆく時に、マツさんから聞いた昔話が一番印象的であったという。

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 大正時代には、越後縮みの原料である苧麻を績むことが盛んで、現金収入源になっていた。苧麻は小国町横沢(よこさわ)の人が運んできて、績んだ糸を持っていったという。マツさんは、若い頃に山宿にあった糸引き工場に二年ほど通ったことがあったので、苧績みは上手であった。

 ハナさんは昔話を長兄からも聞いている。兄も昔話が大好きであったから、マスさんやマツさんからたくさんの話を聞いていた。ハナさんは、小学校卒業後、十三歳で女工として働きにでるまで、兄の子供を背負い、藁仕事をする兄の仕事場まで、藁を持って出掛け、手伝いをしながら昔話を聞いた。

 ハナさんは、自分の子供たちにはあまり昔話を語らなかった。百姓仕事が忙しく、暗くなってから家に帰る毎日で、姑勤めも厳しかった。昭和三十四年夫重太郎、義母ツマを失った時に四十五歳であったハナさんは、多くの子供をかかえて一生懸命働かなければならなかった。それでも冬の仕事がない時には、昼はこたつにあたりながら子供のかるた取りの仲間に入ったり、本を読んだりしてやった。時にはお茶を飲みながら昔話を語ることもよくあったが、主に話を語ったのは夜であった。豪雪地であったこともあって、冬は降雪で度々停電になり、幾日も電気のつかない夜があった。ハナさんが昔話を子供たちに語ったのは、そんな時であった。子供の西脇陽子さんは、ハナさんの昔話のなかの十四話を覚えている。そしてそのなかでも、ヘビの親が自分の目玉をやって子供を育てるという話や、安寿姫と厨子王丸の話が印象的であったといい、これらの話をする時のハナさんは、語りながら涙を流していたという。

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 高橋ハナさんの昔話は一三五話。『日本の民話四〇〇選』(永田義直編著)を参考に分類すると、本格昔話が九四話、笑話二八話、動物・植物昔話が一三話である。ハナさんは長い間昔話を語る機会を持っていなかったにもかかわらず、これだけの数の昔話を記憶していた。ハナさんは、独特の方法で昔話を覚えていたのである。

 ハナさんは、野に咲く菊の花を見ると、「菊の恩返し」の昔話を思い出し、カエルの姿をみると、「カエルの恩返し」の昔話を思い出すといった方法で記憶を取り戻した。そして朝フト目を覚ますと、思いついた昔話をノートに書き留めることを忘れなかった。また忘れていた話を友人に聞いて確かめ、自分が子供たちに語り忘れていた話を娘陽子さんにただすなどして、すべてノートに書き留めて記憶の助けにしていた。

 ハナさんの昔話のうち、母や祖母、兄から聞いた昔話が大部分で本格話が多い。なかには本から得た知識をもとに語った昔話が一六話ある。ハナさんが本から吸収した昔話は、そのほとんどが動物や植物の昔話であり、本格話である。そしてその昔話は小学校の時に習った教科書のなかにあり、たとえば「親を助けた姫」の話は小学校三年の国語の教科書にあって、みんなして涙を流しながら聞いたという。児童生徒の教育に教訓的昔話が教材として使われていたことを知ると共に、ハナさんの伝承者としての心を垣間見ることができる。

 話し好きのハナさんは、いろいろのところで見たり、聞いたりした話を昔話に仕立てている。その他の内容は、老人会の折りに、よそからきた人から教えてもらったもの、お寺の和尚さんの説教で聞いた話などが含まれ、小千谷からきたゴゼさんから聞いた「葛の葉の子別れ」のゴゼ唄を昔話にしたものもある。「恋の病気」は友人から聞いた話であるが、ハナさんが女工時代に、先輩の姉さんが活動館(映画館)でみてきた「牡丹灯篭」や「東海道四谷怪談」などの話を聞いていたことが背景にあり、「牡丹灯篭」の本からヒントをえた話である。

 ハナさんの昔話の語り口は、「あったてんがな」に始まり、「いきがさけた」で終わる。小国町でいう「むかしあったげろ」「むかしあったつぉ」で始まり、「いきがポーンとさけた」で終わるのと同じである。「いきがさけた」とは、一般にいう「一期栄えた」という意味であると思われるが、このことは、昔話が「めでたし、めでたし」で終わっていることでも理解できよう。

 昔話は、語り手と聞き手との気合の一致が大切である。聞き手は語り手がスムースに話が出来るように合いの手を入れる。小国町では「さあーす」と話の合間に、話を促すように入れるが、ハナさんの語り口では話の最初の時だけ「さあーんすけ」と入れる。隣り合わせた両地区では合いの手の言葉の違いはとにかくとして、合いの手をかける時が違い、しかもハナさんのそれは特異のように思われる。

 ハナさんはこの本の表題にもなっている「ムジナととっつぁ」が得意で、そのなかでも「俺が死んだてがんになぜこねや」というところを強烈に語り、聞く人に大きなインパクトを与えている。その理由は、巧みなゼスチュアを入れた見事な語りの場面であるからである。もちろんこのようなゼスチュアは、母マツさんから伝わったものであるはずがない。このゼスチュアは、ハナさんの工夫によるものであり、昔話に対する情熱の現れであり、伝承者としての思い入れの深さでもある。

 昔話は文字で残すことも大切であるが、もともと語り伝えてゆくものである。とはいえいまは上手に語る爺さや婆さはいなく、話をせがむ子供も少ない。その上、それまであった囲炉裏はなくなり、部屋は個別化し、マスコミ情報が氾濫している。日本民話の会主催「民話学校」が小国町で開催された時、若い女性が「昔話は本やテレビで見るものと思っていた。こんなお婆さんから本やテレビで見たものを聞けるとは驚きだ」といっていたことは、まさに語りの文芸昔話の現状を如実に表しているものといえる。事実、阿蔵平でも、昭和二十年代後半にラジオが入って、子供たちの関心は物珍しいラジオに移り、以後昔話を聞くことは少なくなったといわれている。

 いまハナさんは、毎年行われる小国町主催小国雪まつり「ゴゼ唄と昔話の会」に出演し、見事に得意の話を語っている。平成六年七月には、長岡中央公民館でゴゼ唄ネットワーク主催「語り尽くし中越の昔話の会」にも出演した。「昔話を語ることが最高の喜びである」というのは、高橋ハナさんだけでない。同席した林ヤスさん(栃尾市)、故馬場マスノさん(守門村)、山崎正治さん(小国町)など、語り手たちは語る場所を求め、語ることが生きがいと考えているのも事実である。

 しかし昔話の語りに関心をもって、集まる人々のなかには、子供や若者たちの姿を見ない。せびられて語り、語ってもらったという、かつての昔話のあり方は、現在の語りの会には見出せない。ややもすると昔話は、大人が昔を偲び楽しむものとなりつつあるのではないかと心配する。昔話が、語る場所など、従来と異なる環境、条件のもとに語られることは仕方ないとしても、語りは語りを通じて伝承されるべきであろう。語りの文芸昔話が、今後どのように伝承されてゆくべきか、そしてどのようにすべきかなど、この資料集は、なにか大きな問題を投げかけているように思われてならない。

(民俗部会)

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