小国の昔語り
昔話は、小国町では「ムカシ」とだけよばれ、「ムカシ語ってくんねか」と頼むことがおおかった。昔話の語りの機会は、冬が圧倒的である。子供たちが正月に回り番といって、友達の家を宿にして毎晩一軒ずつ回ってゆくとき、その家の話好きのおじいさんに願って聞かしてもらうことが多かったと山崎正治氏は話している。またおばあさんの苧績みしながら語ってもらったようである。風呂もらいに近所に行くとき、囲炉裏端(小国の「へんなか」)で順番を待ちながら語ってもらったという人もいる。タイギョウ(収穫祝い)の晩に語ってもらった事もあった。語りにはちゃんとその機会が必要だったようだ。
小国町での語り出しは、「むかしあったてんがな」「むかしあったてや」「むかしあったげろ」などと言っていた。そうすると子供たちは「サース」と相づちを打った。打たないと「ねら、サース言わんけやだめらこてや」と語り手の方から要求されることもあった。おわりは「これでいきがぽーんとさけた」といわれる。これで昔話は終りである。
こうした話を聞かされた子供たちは、大人になっても、話全体の筋は忘れてしまっても、所々に繰り返されるリフレーンは覚えているようだ。「爺さ爺さ、湯でも茶でもやろうかい」「湯も茶もいらんが山のさるのどこへ嫁に行ってくんねか」というのは、「さる聟」話の一シーンであるが、これは三人の娘が爺さんに、それぞれ同じ語り掛けをする場面であるが、これを省略できない。このリフレーンの面白さが昔話にはあるのかもしれない。「小僧まだかや」「まだまだびっちびちのさかり」は三枚の札のリフレーンである。これが昔話の面白さに繋がっているのかもしれない。故竹部一郎さんも座談会で「さる聟」の「さるはさる川へ流れどもあとへ残る嫁女が恋し恋し」という最後の場面や「太郎と次郎」の話でも「板の橋は渡れども、萩の橋は渡らんね。ピーヒャレタヒョレ」と鳥が歌いつつ継子の太郎の所在を教える場面を覚えていた。
語り継がれる昔話
高校生の頃から始めた昔話とのつき合いも四十年が過ぎた。この間同じようにこれに関わっていたわけではない。昭和三十年代に村を回って行くと、人に奇異に思われ、苦しかった。だれもこれを応援してくれる人はいなかった。その後「小国の昔話」を出してから私は昔話への興味を失っていった。あの頃、昔話と書かれた本などその文字を見ただけで中を開こうとしなかった。
それなのに、昭和六十二年の小国での「民話学校」の開催で再びこれに興味を持つようになった。外部の人たちに教えられて昔話の大切さを自覚するようになった。そして二十五年たって昔話を教えてもらおうとしたら、村にはその昔話を語る老人はいなくなっていた。粕川クラさんなどはその時の数少ない出会いの一人である。
昭和六十三年の「小国芸術村」フェスティバルで初めて「小国のとんと昔を聞く会」を主催した。平成二年からおぐに雪まつりでは「瞽女唄と昔話の会」を開くようになった。このころから昔話の語りが復活したのである。昔話は、かつて少人数の子供たちを相手に囲炉裏端で語られた。しかし、こんどは高座に登って落語を話すように語られるようになったのである。小学校に勤務していた山崎正治氏は教室で語った昔話を大きくなった教え子が覚えていて、同級会の席で語って喝采を浴びたという。
瞽女唄ネットワークが主催して毎年九月に長岡で開く「語り尽し越後の昔話」も盛況である。ここにも越路町の高橋ハナさん、小国町の鈴木百合子さん、柏崎市の大掛きみこさん、中川ナツ子さんなど新しい語り手が登場し、高橋ハナさんなどは語りばあさんとして全国的にも名を上げるまでになった。
昔話集も民俗学の資料として集められて本にまとめれば終りだという考えから、語ることによって次の世代に残そうとする動きが出てきた。平成十一年佐渡赤泊村で「全国民話の里サミット」が開かれ、誘われて参加してきた。民話で町おこしをしようとする動きが全国いろいろなところで始まっている。今はマイクを通して話される言葉が耳元を素通りして、じっくり聞くことがなくなった。講演会なども私語が多く、人の話をじっくり聞けなくなってしまった。昔話は、耳を傾けてじっと聞くという教育的見地が注目され、これからますますその意義が見直されてゆくはずである。
この本は、その語りのテキスト代わりに使っていただきたい。これから昔話は語り始めるのである。
『榎峠のおおかみ退治―越後小国昔話集』書誌
発行日 平成12年2月20日
定価 2400円 ※現在、入手不可
発行者 小国芸術村友の会編
代表 山崎正治
編集 小国芸術村友の会事務局 高橋実
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